Madam.Kayoのひとり言


by madamkayo
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

<   2006年 01月 ( 8 )   > この月の画像一覧

『飛び入り・バーティーデビューの巻・前編』

 小学校2年生になった春に、父親が勤める会社の創立何十周年かの記念パーティーが、東京の○ルトン・ホテルで行われた。社員は家族同伴と言う事で、私たちも招待され出席した。
母は、少し身体も調子良くなり、着物を着てめかしこんでいた。私と弟も、お出かけ用の洋服を着させられていた。あいかわらず私は、母が可愛いと信じ込んでいた、当時流行っていたTVドラマ「チャコちゃん・ケンちゃん」のチャコちゃん・ヘヤーのショートのざんばら髪にされていた。

a0044166_2275422.jpg このホテルの中でも一番広いと言われる『真珠の間』で行われ、入ると天井には大きなシャンデリアのようなまるで真珠の輝きを放ついくつもの灯りと、中央には当時では目新しいバイキング形式の円形のテーブルが設置され、その更に中央には、大きな氷の魚の形の彫刻がデコレーションされていた。

 料理も食べたことのないような、ローストビーフをコックさんがどんどん切って下さり、その列に並ぶと、お肉と横にビネガーで味付けされた野菜が盛られた。あんまり酸っぱいので母と、「このすっぱい野菜はいらないね~」と言いながらワイワイといただいた。

 パーティー会場は、約200人位の方が出席していたかもしれない。舞台では、お偉方のスピーチやそれが終わると、バンドの演奏などが行われていた。
パーティーの進行役は、父と同僚の方がマイクをとってやっておられた。

 「あ、去年夏、海で一緒に遊んでもらったおじちゃんだ」・・とすぐにわかった。
わが家はあまり出かける方ではなかったけれども、夏休み中の海だけは、会社で貸切のような民宿に連れて行ってくれた。一年生の夏休みは、弟は風邪をひいてしまった為母とお留守番だったので、父とふたりで行った。
 民宿には何組かの家族が一緒に何泊か泊まり、その時は、子供も私の歳位の男の子ばかりだった。昼間は海で、夜は蚊帳の中で遊んだのを覚えている。本当に楽しい思い出だ。そのおじさんも、紅一点の女の子と言う事で、私の事もとても可愛がってくれた。だから大好きなおじちゃんだ。

 ひとしきりバンドなどの催し物が終わり、そのおじさんがマイクをとって皆に呼びかけた。
「え~、まだまだお時間があるようですので、何か『かくし芸』のように出てきてやって下さる方は、いらっしゃいませんか?我こそはと言う方は、どうぞお手を上げて下さい!」と大きな声で言った。
 周りを見渡すと、さっきまでザワザワしていた客席が一瞬シンとして、何だか皆うつむき加減だ。
 「あれ、大好きなおじちゃんが呼びかけているのに誰も何とも言ってあげないの?」と私は気が気でなかった。

 またおじさんが「どなたか、いらっしゃいませんか~?」と呼びかけた。
「もう、じれったいなぁ~」とばかり、私は「ハイ」と気が付いたら、教室で先生に答えるように手を上げてしまった。

 すると、おじさんが「あれ?山○さんのお嬢さん?」と言って、ちょっとためらったように、こっちへおいでと促した。

 チャコちゃん・カットの私は、大好きなおじちゃんに向かって、ツッタカター♪と小走りに走って行った。
母は、「コラッ!ホロ・ヒレ・ハレ・・」と言いながら、着物の袖口をヒラヒラさせていたけれども、全く気にせず、私は舞台に向かって行った。
 
 私たちの席は、左側の中央だった。そこから舞台が遠く感じたけれども、おじさんも舞台から下りて、私の方に歩み寄ってくれた。少しかがんで顔を近づけて小さめの声で「何をしてくれるのかな?」と優しく聞いてくれた。私は間髪入れずに「ピアノを弾きます!」と元気に答えた。
                                    (つづく)
[PR]
by madamkayo | 2006-01-28 22:08 | 私小説
『冷や汗・ピアノのレッスンの巻』

 ○原先生のピアノのレッスンは、私が一番弟子であったけれども、初めてと思えないような、先生のお人柄がにじみ出るような、落ち着いた教え方で淡々と進むものだった。
 今思えば、先生はうちの母よりはだいぶ若い年齢であったけれども、あの年代でピアノを習っておられたのだから、ザリガニをとって育った団地のどこかの子と違って、本当のお金持ちのお嬢様として育った方だったと思う。だから、団地の奥様と思えないような、上品な雰囲気がするお人だった印象が残っている。

 a0044166_2259414.jpgどなたも耳にした事があるピアノの教本『バイエル』を小学1年生から与えられ、私はなんのてらいも迷いもなく、○原先生の導くままに進んでいった。
 
 先生は、ピアノの先生にありがちなヒステリックに怒ったり、どうしてこんなのができないのかしら?と言うような怠慢な態度など、一切見せないお人だった。
 それどころか、どんなに下手に弾いたとしても、その子の良い所を見つけて、褒める事を忘れず、週に1回のレッスンの中で、ひとつは褒めて下さったような気がする。

 あるレッスン中に突然先生が、アプライトピアノの上の蓋を開けて、直接響いてくる弦の音を聞かせてくれた事があった。「今の所もう一度、弾いてみて。ほら、こんなに良い音が出ているのよ。かよちゃんは、タッチが良いわね。とっても力強い音が響くわ。」と褒めて下さった。
 きっと、このレッスンの時は、褒める所がなかったのだろうと推測する。でも、マイクロミジンコ頭の私は、すぐその気になってしまった。「そうかぁ~、こうやってタッチすれば、いい音がでるんだぁ~」と、大きな音を出すのが好きになってしまった。

 ○原先生は、そんな子供心をその気にさせる、マジカルな技を持っておられる方だった。


 そんな超単純な私であったけれども、バイエルが終わって小学2年生になる頃、「ブルクミュラー」と言う教本が与えられた。この時「ハノン」と言うドレミの音階を何回も弾くようなウォーミングアップ的な教本と、「ツェルニー100番」と言うハノンより、より楽曲的でいろいろな弾き方が出来るようにする、算数で言うとドリルのような教本を与えられた。私は、このツェルニーはわりと好きであった。

 a0044166_2322023.jpga0044166_2324292.jpgでも「ブルクミュラー」と言う教本は急に難解になり、「ピアノが好き」と思い込んで、突っ走って来た私にとって、初めてぶち当たった、壁のような教本であった。
 聞いた事もない楽曲、その曲の雰囲気がそれぞれ全く違い、曲の好き嫌いがはっきりしていた私には、とっつきにくい物ばかりだった。
 
 ○原先生は、次の曲の宿題を出す前に予告編として、ご丁寧にサワリだけ弾いて見せて下さっていた。私は、1回聞いて譜面を見ただけで、「あっ、この曲嫌い」とわかってしまった。だから、土曜日の週一のレッスンまでに、どうしよう・どうしよう、と思いながら1回も譜面を開けない事がままあるようになってしまった。嫌いで苦手であれば、より一層練習しなければいけなかったのに・・・

 練習をしなかった週のレッスン教室への足取りは、重い。。。母に「ともかく行きなさい」攻撃で、嫌々玄関を出て、ダリダリラァァ~ン、とズリズリと団地内の道を歩く。先生への棟は、斜めに歩いて行き団地中央の公園を突っ切れば早いのだけれども、公園を通ると遊びたくなってしまうので、外回りでL字に曲がって歩いて行った。先生の家は、一番右の棟の右端の階段の3階だった。
 
 初めて譜面を開く時の緊張感と言ったら、酷いものだった。これこそブッツケ本番だ。「すいません、練習を今週はしていません」と謝るすべをしらないミジンコ頭の私は、冷や汗が出る思いで、最後までしどろもどろに弾いてみる。・・・するとどうであろう・・「かよちゃんは、譜面を読むのが早いわね~」と、さっきまで黙って聴いていた○原先生が、そうおっしゃっるではないかっ!
 練習をしていないのに、ほ・褒められた???私は目が点になる思いで、帰って来た事があった。
 
 だいぶ後で知った事だったけれども、どうも母が、私がダラダラと歩いている間に先生の家に「先生、すいません。今週も?全然練習しておりませんが、よろしくお願い致します。」と先回りをして電話をしていたらしい。。。そんな事は当時豆粒も気が付かない、マイクロミジンコ頭の私であった。
 
 ごく最近まで、この全く練習をしていない譜面を開いた瞬間の『冷や汗・ピアノレッスン』の夢を見る事があり、そんな時は、ハッと起きたりするのであった。
                                        つづく
 
 〔写真:上左・当時のバイエルと曲の教本(バイエル150円)
    中央左・ブルクミュラーの好きだった曲   中央右・嫌いだった曲〕
[PR]
by madamkayo | 2006-01-21 23:06 | 私小説
『団地のピアノの先生誕生の巻』

 この頃住んでいた公団住宅は私が生まれる前に建ち、当時にしては近代的なハイカラな建物だった。回りは田んぼや畑に囲まれ、まだ昭和の良き時代の、のどかな風景が広がっていた。
 3・4歳頃の私の遊びは、もっぱらメダカをとったり、大量発生したアメリカザリガニをとる事だった。当時は、バケツ一杯とれ、私は飽きる事なく夏などは毎日のようにとりに行った。この日の収穫とばかり、泡をブクブクはいているザリガニがいっぱい入ったバケツを玄関に置いておいたものである。

 その頃の事で、母が100回近く聞かせてくれる逸話のひとつにこんなのがある。

 いつもと違う路線の遠めのバス停に、3歳の私を連れて行った時の事。「ママ、あんよが痛いよ、痛いよ」と言いながら私は、お気に入りの黄色の長靴を指差していた。母はまた私が甘えているのだと思い「バス停まで我慢して歩きなさい」と歩かせたそうである。
 バス停に着いて「しょうがないなぁ、小石でも詰まっているのかしら」と長靴を脱がせて逆さにふってみると、アメリカザリガニが出てきて、怒ったように大きな鋏の爪を上にガッ!っと振り上げたから、びっくり!それを見ていたバス停にいたおじさん達が「これじゃお嬢ちゃん、痛いはずだねぇ!」と大笑いになったそうである。

 前置きが長くなってしまったけれども、こんなのどかな所で、おいそれとピアノの先生がいるわけもなかったのである。今の時代のように音楽教室もなく、ピアノの先生の人数も圧倒的に少なかった。周りの農家のおばさん達がピアノを持っていると言うのも考えづらく、隣町か東京まで、バスや電車で通わなければ、続けるのは不可能だった。

 少し体調が良くなって来たとは言え、まだそんな遠くまで私を毎週送り迎えする自信がなかった母は、この団地内で、ピアノの先生、それが叶わなければピアノが弾ける団地妻、じゃなかった奥様を探し出そうとしたのである。

 東京の巣鴨の金物屋の8人兄弟の長女として育った母は、体調が少しばかり悪くても口だけは達者である。あらゆる手段を使い、「ピアノが弾ける人をご存知ではありませんか?」ときいてきいて聞きまくった。
 そうしたらなんと、奇跡的に1人いらっしゃったのである!a0044166_22182929.jpg
畑の中に並んで建っている団地は、全部で18棟。私達のうちは、一番はずれの18号棟だった。
そのピアノが弾ける奥様は、対角線上のうちから1番遠い4号棟の人だった。

 その奥様は、まだ私より1~2歳年下の女の子と、更に私の弟より小さい男の子をかかえていた。
育児に真っ盛りのその奥様は、当初この母の「うちの子にピアノを教えて下さい」と言う申し出をお断りしていた。と、言うか断り続けていた。でも、母は頼み続けたらしい。
とうとうその情熱に押されて、団地の奥様は承諾して下さった。
  
 かくして私は、○原先生の一番弟子になったのである。

 そんな親たちの苦労と葛藤も、露にも知らないウルトラミジンコ頭の小学校1年生の私は、またタリラリラ~ン♪とピアノ教室に通い始めた。
そして、この○原先生には、小学校6年生まで、教えていただく事となったのでした。
                   (つづく)

〔写真:私・小学校1~2年生、弟・幼稚園生  後ろ右建物・18号棟〕
[PR]
by madamkayo | 2006-01-15 22:20 | 私小説
『オルガン教室からピアノ教室へ移った訳』

 私は、小学1年生になった。めでたくピカピカの1年生を何ヶ月か過ごしている頃、ある日の夕方、あの優しいオルガンも教えてくれた「もも組」の担任でもあった○山先生がうちに訪れて来た。

 私は、久しぶりの再会がとても嬉しかった。でも、先生は赤ちゃんを連れていた。ミジンコ頭は「いつ先生、結婚したんだろう?」と思ったものの、小学校の積もり積もった話もある。ちゃぶ台の横に座った先生のすぐそば行って、話しを聞いてもらって遊んで貰おうと思った。けれども、私との間の座布団の上で、モゴモゴ動いて「ホンギャー・フンギャ~」と言って泣いている、赤い小さい物体?がそれを阻む。
 それに、何だか先生の様子がおかしい。元気がなく、時たま目頭を押さえて何か父に相談しているようだった。父は、静かに聞いてはおだやかな口調で何やらアドバイスをしているようだった。

 私は、先生がどうやら今日は遊んでくれなさそうでつまらないので、台所でせわしなく夕飯の支度をしている母親の所に行った。
 この日のメニューは、たまたま「カレーライス」だった。それはいいのだけれども、なぜか「豆腐となめこのお味噌汁」も付けていた。カレーと合わないじゃない!それに先生が初めていらしたんだから、もうちょっとハイカラな物をお出しできないのかと、ヤキモキして見ていると、母が小さい声で聞いてきた。
 「○山先生の家の近くで、黒い洋服を来た男の人を見た事がある?」と言うので「あるよ」と答えた。

 a0044166_21485241.jpg○山先生のうちは、わが家の公団住宅から、すぐ前の何でも屋さんの△田屋さんを右に曲がり、バス通りに出たらそこを渡り、民家の間の小道を抜けると昔ながらの畑が広がっている。その畑の右側の一角に建っている新しいアパートの一階の左から2番目位の部屋にあった。

 オルガンのレッスンは、宿題の曲を弾いて見てもらい、今度の宿題のお手本を見せてもらい、最後に先生の伴奏で「ヤマハの、音楽きょ~しつ~♪」とお決まりの歌を元気に歌って終わる。
「やぁ~、今日も楽しかったなぁ~」とタッタカ・ランランラ~ンと畑を通り民家の間の小道を抜けると、私の帰るのを待っていたかのように、民家の影に隠れ立っていた、黒いシャツ・黒い細めのズボンの細身の男の人が、逆に小道に入って行った。それを2・3回見かけたのを覚えている。

 母はまた話を続けた。「その男の人が、同級生の女の人を訪ねて、赤ちゃんが出来てはどこかに行ってしまうのですって」と言った。超ミジンコ頭にはトンとわからなかったけれども、私が見かけたその黒ずくめの男の人が、大好きな○山先生を泣かせている事だけはわかった。可愛そうな先生。
 後に、大人になるにつれ、その意味がわかるようになってきて、「先生の女性としての人生っていったい・・・」と考える事が、しばしばあったりして私の頭から消えなかった。

 その頃それで、母は慌ててピアノの先生を別に探し始めたのかもしれなかった。

 それから、先生にはずっと会えずにいた。私が小学校3・4年生になった頃、商店街で「お母さん、買い物遅いな~」としゃがんで待っていると「あら、かよちゃん?」と優しい声が右上から聞こえてきた。見上げると、○山先生だ!先生は、3歳くらいの男の子を連れていた。「大きくなったわねぇ!」と言って私の方を見ている先生の顔は、あの頃と変わらない柔和な笑顔を浮かべていた。・・・
                        (つづく)

  〔写真:先生の家の前の畑で・オルガン教室のお友達と・私6歳・左〕
[PR]
by madamkayo | 2006-01-09 21:49 | 私小説
『初めての一斉一代の舞台』

 その後、年長「さくら組」に進み、毎日のように私にとって楽しい日々が続いた。
 ただこの頃、母は体調が悪く、寝たり起きたりの日が続き、運動会や遠足のような行事ごとにほとんど母は来る事ができなかった。
 でも、今に比べると実にポジティブな私は、遠足に父やおばあちゃんが来てくれたり、運動会のお遊戯で母の代わりに先生が一緒に踊ってくれたり、親子レースでは母の妹の若いおばさんが一緒に走ってくれたりして、何だかそれが嬉しかった。母に言わせると、寂しいとか思う神経がない、抜けている子だった・・?ので助かった、との事である。

 幼稚園の卒園の時期が来た。この幼稚園は、講堂のような表はガラス張りの大きな部屋があり、園児達が劇をみせたりする舞台と、その前にはグランドピアノがあった。
 オルガン弾きの業績?が認められたのか、その卒園式で私は先生の代わりに、卒園生の歌の伴奏を弾く事になった。その曲は、『思い出のアルバム』と言う曲だった。
 a0044166_935117.jpg手書きのような譜面を貰った時に、私にはちょっと難しいと言う印象はあったものの、ミジンコ頭の使命感から、これを何としてでもやりとげなければと思った。
 見たこともない左手の低い音や、おまけに♯などの記号も付いている。
ここでさらに困った事があった。この時、エレピを買ってもらってはいたものの、2DKの公団住宅の手狭さの為小さい物だったので、練習には鍵盤があきらかに足りなかった。

 そこで、体調が悪くても口だけは達者な母は、同級生の男の子のジュンちゃんの家にピアノがあるので、練習をさせてもらうように頼んだ。ジュンちゃんの家は同じ棟の隣の階段にあり、私はタッタカター♪と自分の家の4階から階段を下り、ジュンちゃんの家の3階まで上って、練習に通わせてもらった。
 余談だけれども、20歳の頃、就職活動している時に、とあるリクルートのビルの中で彼に8年ぶり位に再会した。お互いホクロが顔にある為すぐわかったけれども、異性同士と言う事で声はかけ合わなかった。

  卒園式の日が来た。やはり母は来れなかったので、父が一緒に来てくれた。
 『思い出のアルバム』を卒園生が歌う時間になった。さくら組の担任の先生がグランドピアノの私の横にピッタリついていた。父が心配そうに、所狭しと立っている父兄の間から首をのばして見ていた。超ミジンコ頭だった為、あがると言う事はまったくなく、左手の低いソ♯の音も間違いなく届いて弾けたと思う。
 卒園生の良い子のみんなが大きな声で「い~つの~・こと~だか~、おもいだしてご~らん~、あんなーこと~、こんなーこと~、あーったーでしょ~♪」と声を張り上げて元気に歌う。これで、パラダイスのような楽しかった幼稚園生活も終わり。私は、初めて「ママ(お母さん)に、来て見てほしかったなぁ~」と思った。
                        (つづく)
[PR]
by madamkayo | 2006-01-06 09:36 | 私小説
『オルガン弾きの任務の巻き』

 昭和40年、私は埼玉県の某幼稚園・年中組に入園した。私は幼稚園が大好きだった。門の所で「お母さ~ん!」と母親と離れたくないのか、しがみついて泣いている子を見かけた事があったけれども、そんな子の気持ちがわからなかった。お絵かき・お歌・お遊戯と楽しい事ばかり、教えてくれて、まるでパラダイスのような所に感じて私は毎日行っていたのだから。。。

 a0044166_05889.jpg私は当時4~5歳、幼稚園の制服のボタンも満足にとめられずボーっとしているような子だった。時には下の出来の良い弟にそのボタンをはめて貰っている姿を見て「この子に何か習わせないと、何もできない子になってしまう!」と危機感に襲われた母は、オルガンを私に習わせる事にしたそうだ。

 私が所属する『もも組』の担任の○山先生が、近くのアパートでオルガンの個人レッスンをなさっているのを、母は嗅ぎ付けたらしい。『幼稚園・パラダイス』の延長のように、母は私にオルガン教室に通わせた。
 私は母の計画にまんまと乗り、お気に入りのピンクのバックに教本を入れ、ひとりで通った。ピンクのバックは、外は硬いビニール製で長方形の形をしていて、長いチャックで開け閉めでき、表には3人のバービーちゃんのようなファッショナブルな女の子がポーズをとっている絵がプリントしてあった。そのバックを持って、タッタカター♪と歩いて、子供の足でも3~4分位で先生のアパートに着いた。
 ○山先生は、まだ20代で若くて、お顔はふっくらした感じの本当に優しい先生だったと記憶している。指の1・2・3・・の番号から、もちろんド・レ・ミ・・も、優しい口調で教えて下さった。私は、このオルガン教室に通うのが嫌だと思った事がなかったので、どんどん弾く事が好きになった。 

 当時のオルガンは、足でコキコキこいで空気を送らないと確か音が出なかったのだけれども、どちらかと言うとインドア派だったようで、家でも夢中で弾いている事もあった。
 この時から凝り性だったのか「チューリップ」「ちょうちょ」「むすんで・ひらいて」のこの3大幼稚園曲を、飽きることなく弾いた。「咲いた~咲いた~」から始まり「ちょうちょ~ちょうちょ~」で同じようなコードの移り代わりで伴奏もつけて「むすんで・ひらいて」では、アップテンポで時には「おひさまキラキラ」の所でよりジャン・ジャン・ジャンとご機嫌に移っていくメドレーを、超ミジンコ頭はこの上なく気に入っていた。

 それが見込まれたのか『もも組・おやつの時間・オルガン弾き』に、○山先生から抜擢された。これは、名誉な事だと超ミジンコ頭は思っていた。
良い子のみんながおやつをいただく前、手を洗う時に合図として、かよちゃん弾いて、と言う物だった。大好きな優しい○山先生の頼みを断るわけにはいかない。私は、一生懸命弾いた。もも組のお友だち達は、私のこの3大幼稚園曲を聴くと、パブロフの犬の条件反射のように、みごとに手洗い場に行き、何列かに並んで手をいい子に洗い始めた。先生は皆が洗い終わるのを見て、「ハイでは、いただきましょう♪いただきます!」「いただきます!」と、お皿にそれぞれのった何枚かのクッキーなどをいただいた。
 
 ・・・でも、ここで大きな問題があった。私だけが、手を洗えないのだ!
今だったら、40女の図々しさで、みんなが「いただきます」を言っている間に、ササっと洗ってしまうのだけれども、超ミジンコ頭はどうしていいかわからず、おずおずと自分の席に座り、絵の具だらけの時には泥んこだらけの自分の手をチラッと見て、端っこをつまむようにしてクッキーをそっと食べた。
 だから、私にとっておやつの時間だけは楽しい物ではなかった。一年間、このもも組・おやつの時間が繰り替えされた。優しい○山先生は、とうとう私が手を洗えない事に気がついてくれなかった。
                            (つづく)
      〔私:3歳・自宅でおもちゃのピアノを弾く  写真:父撮影〕
[PR]
by madamkayo | 2006-01-05 00:07 | 私小説

蛙の子は蛙?

a0044166_15363933.jpg

初公開?の息子、ひろかず、20歳です。
早生まれですので、来月の2月で21歳です。
早いものです。私が、CHIPSに入れてもらった頃の年齢に息子がなってしまいました。

不思議です・・・勉強は、トンとしなかったのに、知らない間に音楽好きになっております。
主人に言わせると、外見だけでなく内面も私に似ているとか・・・

でも、好きな音楽のジャンルは若干違います。
息子は、「ゆず」のような、昔で言うフォーク系が好きですね~
でも、ビートルズもクイーンも良いのはわかると言っておりました。
先日、サザンの桑田さんも天才だ!なんてのたまったりもして。。。

高校の時は、夜中に突然出かけて、地元の駅前や、千葉駅前に出没して、ストリートで歌いまくっていたようです。寒い・眠い・きついが苦手な私は、とうとう見に行く事ができませんでした。
何かのコンテストに出て、千葉では優勝したようですが、全国大会に出る時、ビデオ審査で落ちたような事もあったようです(笑)

今、美容院で修行中の身で、ほとんど夜中に帰って来ますが、やはり歌が忘れられないらしく、突然、相方と夜中に出かけて、寒空の中、歌いに行きます。オリジナル曲を二人で作ったり、自作CDを作ってもいるよう・・・

蛙の子は、蛙でしょうか・・・音楽好き病は、遺伝するようです。
[PR]
by madamkayo | 2006-01-03 15:38 | ひとりごと
明けましておめでとうございます。

昨年、じょんどう氏に立ち上げていただき、手探りで始めたブログも、だんだん自分にとって楽しいものになって来ました。

皆様、つたない文章を温かく広いお心で、読んでいただきありがとうございます。

仕事の息抜きの時、夕飯を食べた後の一服、お風呂上りの至福のひと時などの時、ちょっとおいでいただいて、中年女のアクセク模様を、楽しんでいただければと思っております。

これからも、よろしくお願いします!ネ♪(^^)
[PR]
by madamkayo | 2006-01-01 13:23 | ご挨拶