Madam.Kayoのひとり言


by madamkayo
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カテゴリ:私小説( 10 )


 ○原先生のピアノ教室も評判が良く、私が小学生の高学年になる頃には、生徒数は20人位になっていた。ほとんどが下級生のちょっとお嬢様風の女の子と、そして数名のお坊ちゃま風の男の子だった。
 私は1番弟子の名誉をかろうじて死守し、井の中の蛙とも知らず、優しい○原先生のもと、練習をしない週の悪夢はあれど、楽しいおピアノ教室は続いていた。

a0044166_14304698.jpg○原先生も自信を付けて来たのか、「ピアノの発表会」は自宅ではなく、公民館のような部屋を借りるまでになっていた。
そこでも、私は最後に弾くと言う恐れ多い役をおおせつかったけれども、この頃までの私はあまりあがる事もなく、家と変わらず弾けたような気がする。

 小学校5年生の時の発表会には「アルプスの鐘」と言う雄大な曲をいただいた。
私が好きな大きな音の和音が中心の曲調で、所々もこれまた私が好きな装飾音がキラキラとほどこされてあった。
○原先生は私の好みを良くご存知だった。このような楽曲を与えれば、私が一生懸命練習してくるのがわかっていたのだろう。
 
 この日の発表会の頃、父が検査の為に入院していた。ちょっと寂しかったけれども、引率の母の前で、母のリクエスト通りに大きな音で元気良く弾こうと思っていた。
 私が弾き終わって椅子に付くと、「パパが見に来ていたのよ。病院を抜け出して、あそこの後ろにいたのよ。ママもびっくりしたわ」「パパは?」「かよこを見て、すぐ帰ったわよ」と言われた。真面目で物静かな父らしい行動だった。一言位、声を掛けて行ってくれてもいいのに、父は私が弾いている姿だけ見てそっと帰って行ったのだった。

 そんな充実したピアノ教室にいたにもかかわらず、ピアノを持っていないと言うのが、私にとってどうしても気がかりな事だった。
 でもそれも、もう少しで解消されそうだった。我が家が引っ越す事になった。小学生6年生の夏にとある千葉の奥地?に引っ越す事になった。でもこれでピアノを買ってもらえる!

 a0044166_14314726.jpg6年1組の仲良しの皆で、豪快な元相撲部の担任の男の先生の号令のもと、建ったばかりの体育館で私のお別れ会をしてくれる事になった。新しい体育館で何かをしたいだけだったのかもしれないけれども、私はとっても嬉しかった。
 母がビンジュースを酒屋さんに持ってこさせ、皆に振舞った。皆でフォークダンスを踊ったり楽しいひとときを過ごし、最後は私が舞台に登りみんなにお別れの挨拶を述べた。何を言ったか覚えていないけれども。。。クラスメイト達は、思い思いのプレゼントを舞台にひとりづつ上って、私に手渡してくれた。女の子は貯金箱など可愛らしい物、男の子はいらない漫画本?などをくれた。ありがたい事だったけれども、母に言われた通り、誰が何をくれたかメモっておきなさいと言われていたので、メモをするので精一杯だった。
 
 感情の脳細胞が未だ出来ていない頃だった為、この時は寂しいと言う感情は湧き上がってこず、皆がこうやってお餞別をくれる事がただただ嬉しい、ミジンコ頭だった。

 しかし、引っ越すまぎわの最後の○原先生のピアノのお稽古の時間になって、やっと気が付き始めた。
ピアノを手に入れる為に引っ越すと言う事は、友達だけでなく、この優しい○原先生ともお別れだった。
 この頃の未熟者の私は、満足に○原先生にお別れを言えなかったかもしれない。でも先生はちゃんと私に最後の言葉を用意してくれてあった。
最後のピアノのお稽古が終わると、長細い色紙をくれた。それには、先生の綺麗な筆字でこう書かれてあった。

  「日頃の努力 一切に勝つ」

この言葉の本当の意味がわかるのに、私は数年かかったかもしれない・・・
                                     (おわり)

(下写真:私・中央教壇後ろ右から2番目)


『思春期編』につづく
予告:ポジティブだった幼少の頃に比べ、ぐっとネガティブになります。お楽しみに~
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by madamkayo | 2007-01-03 14:34 | 私小説
 『ピアノが欲しいの巻・その2』 

母親の「この家のどこにピアノ置くの?」と言う問いかけに、小学生の私のミジンコ頭は、毎日のようにくるくる回っていた。

 2DKの狭い公団住宅。6畳の居間には、大きなタンスが2つ、その上に小さなステレオがあった。それから、当時としては新型のカラーテレビ。これは、どこの家よりも早く購入したと、母の自慢だった。公団住宅の屋上のような1番天辺の屋根に、カラーテレビのアンテナが付いてからは「ホラ、うちの家だけは大きくて違う色のアンテナでしょ!高いカラーテレビをパパが買ってくれたのよ」と、我が家がある18号棟の天辺が、買い物の帰り道などで見えるたびに指を指して言うのが当時の母の口癖だった。
 話は横道にそれたけれども、あとは父の机がこの部屋にあって、壁には几帳面な父が株の動きを綺麗に赤・青鉛筆で毎日更新している大きな折れ線グラフが貼ってあった。どうもこの居間には、ピアノは置けそうにない雰囲気だ。

 では、私と弟の『子供部屋』と称している4畳半しかピアノの置き場所の候補としてはないと言うのが、消去法の考え方だ。この部屋には、私と弟の勉強机、そして母の足こぎが付いているミシンと、一生使わないであろう着物が入っている桐タンスが置いてあった。私には無駄な物ばかりに感じるが、どれも捨ててくれそうにない。

 母の「ピアノを置いたらどこで寝るの?」の答えは、こうだ!うちにはよその家にある憧れの2段ベットもない。ピアノの上に寝ると言うのはどうだろう?一石二鳥だ。ピアノをこの4畳半の真ん中に置き、弟は当時太っていたので、ピアノの1番上に載せて寝かせる。そして私はピアノの蓋の上だ。でも、あいにく私は寝相が悪い。小学生と言えども、幅30cmにも満たない蓋の上はどう考えてもやはり無理だ。
わかっていながら「ピアノの上で寝る!」と大きな声で母に反論していたような記憶がある。

a0044166_2383560.jpg そうこうミジンコ頭で考えているうちに、隣のK子ちゃんの順調なピアノの練習の音がまたしても薄い壁を越えて聴こえて来る。
私も負けじと、エレピに向かうが、鍵盤も足りないし、タッチも物足りなくどうも違う・・・そんな事を考えて練習をしていると、口が尖がってきて、母に「そんな顔しちゃダメよ。本当にそうゆう顔になっちゃうんだから」と言われたような気がしたけれども、正直な小学生の顔は作り笑顔など作れなかった。

 
 小学生3年~高学年くらいになると、曲の課題は『ソナチネ』『ソナタ』と進んで行く。
この譜面本は、作曲者順に作品が載っていて、簡単な順に番号がふってあるわけではない。だから先生が「今度、これをやってきなさい」と言うのが、宿題の順番になる。
モーツァルト・ベートーベン・ハイドン・クレメンティ・クーラウなどの、初級・中級者向けの楽曲が載っていた。
1作品につき、3楽章から構成されており、楽章ごとにテーマが全く違う主題になっている。
だいたいの作品は、まずちょっと華やかな旋律から始まる第1楽章、そして間の第2楽章は少しトーンを落としたスローなテンポのどちらかと言うと地味めな曲調になる。そして第3楽章は、元気が戻ったようなアップテンポな曲調になるパターンが、どの作曲者でも多いようだった。

 先にも述べたように、当時の私は曲の好き嫌いが激しく、派手な第1楽章とアップテンポの第3楽章は平均的に好きであった。問題は第2楽章。今、この歳になって改めて譜面を見直すと、実にしみじみと味わい深いものばかりだったと気が付いたけれども、当時、『むすんで開いて』で培われた私の脳は理解する事ができなかった。好き嫌いは別として、ちゃんと練習をすればよかったものを、あまり好きでないと感じると、一目譜面を見ただけでほとんど練習もせず、気持ちは第3楽章に飛んでいたりした。だから、いつも第2楽章で、先生になかなか○を貰えない。

 そんな事でつっかえているうちに、そんな好き嫌いはなく、コンスタントに進めているK子ちゃんが、ジワリジワリと、私が以前習っていたソナチネ・ソナタの第1・2・3楽章と駒を進めて行く。

 そうすると、私のミジンコ頭が、「ピアノさえ買ってもらえば、もっと上手になれる!いや、なってみせよう!」と叫び、ピアノの蓋の上でどうやって寝ようか?とぐるぐると動き出す。


 そんな気持ちを父は痛いほどわかっていたのだろう。新しい家を探し始めた。
小学高学年の頃の日曜日に、よく新築分譲地や、東京のマンションなどを見に行く機会が増えて来た。
 当時は今と違い、需要と供給のバランスが逆だった。現在、私はとある住宅会社に勤めていて、お客様を探すのが大変と言うのを感じているけれども、当時は欲しい人の方が圧倒的に多く、住宅建設が間に合わないような時代だった。ことごとくうちは抽選にはずれたらしく、母が「クジ運がうちは悪いのよ~」とばかり言っていた。

 諦めかけていたそんなある日「家が当たったわよ!」と言う、母の嬉しそうな声が聞こえてきた。
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by madamkayo | 2006-11-23 23:19 | 私小説
『ピアノが欲しいの巻・その1』    (久々の私小説・続きです^^;)

 当時の公団住宅は、6畳間が2部屋とダイニングキッチンの2DK。昭和の団地としてしては、主流の間取りであったけれども、家族4人、子供が育ってくれば、狭く感じられるようになるのは、仕方がない事であった。

この住宅事情で、ピアノを買ってもらえないのは、子供ながらに我慢しなくてはいけない事とわかっていた。

しかし、その気持ちに刺激を与えるような出来事があった。

 小学校3年生の時、隣に同じ学年の女の子が引っ越して来た。
隣と言っても、同じ棟で隣の階段の、壁を挟んだ家であった。

K子ちゃんと言って、利発そうで、子供ながらにこの子は将来美人になるんだろうな~と言う顔立ちをしていた。
ハキハキと物が言える子で、転校して来てもすぐにクラスになじめ、学校も一緒に帰り、すぐに仲良くなった。
その子もピアノを習っていたので、私が一番弟子で教えてもらっている、○原先生を紹介して、ピアノ教室も同じになった。

 彼女の家にも行き、よく遊んだ。そこで、とても羨ましい事がひとつだけあった。
彼女の家には、『ピアノがあった』のだ。
彼女は、1人っ子で、やっと出来た子だとかで、大切に大切に育てられていた。
ピアノだけでなく、沢山の本が本棚に並んでいて、私も不自由なく育って来たとは言え、隣の芝生が良く見える物で、羨ましいな~と思う事が何度かあった。

 でも、呑気な私は家に帰るとそんな事は忘れてしまう事が多かったけれども、K子ちゃんのピアノの音が聞こえてくると、話は違ってきた。

 ○原先生もこの頃、団地の人達も噂を聞いてか、生徒が十何人にもあっと言う間に増え、一番弟子の私も「ソナチネ」「ソナタ」と言う教本に進んでいた。
そして、○原先生の指導の元、井の中の蛙として、順調に変な自信だけはつけていた。
発表会の時などは、小さい子達の前で、最後のトリを取り、ちょっと華やかめの早弾きの曲などを披露して、後輩のちびっ子達に「おね~ちゃん、すごい」と言われて、満足していた。
a0044166_11525311.jpg
そんな不動の地位が揺るぎ始めて来た。

 K子ちゃんの「おピアノの練習の時間」が夕方頃始まると、当時の薄っぺらいコンクリートの間の壁を越えて、アプライトピアノの背面から、ピアノ音が見事に、我が家の2DKに響いて来た。

 そうすると、私も刺激されて、一応自分の部屋に行き、エレピに向かって練習を始めた。
し・しかし、「ソナチネ」「ソナタ」になると、鍵盤が明らかに足りないっ!
私は、右の縁(ヘリ)の所で、カタカタと指を動かし、鍵盤があることを想定をして、またカタカタと戻ってくるような練習を繰り返していた。

 そうこうしている間に、利発なK子ちゃんのピアノのお稽古は順調に進んでいるようで、私の習っている曲目にジワリジワリと追いついて近づいている事に気が付き始めた。

 ま・まずい、このままでは、追いついて越されてしまう。。。一番弟子の不動の地位が・・・
・・・・・・「ピアノが欲しい・・・!」と真剣に思い始めた。

 それからの私は、事あるごとに親に、「ピアノが欲しいー!ピアノを買って~!」と言うようになり、母親には、「この家のどこに置くの?」と、叱られる日々が続いたのだった。
                                          (つづく)
         (写真: 左奥・○原先生、後列右端・K子ちゃん、右2番目・私-小学校4年生位)
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by madamkayo | 2006-09-07 12:14 | 私小説
『飛び入り・バーティーデビューの巻・後編』

 ちびっ子飛び入りの「ピアノを弾きます」と言う答えに、進行役のおじさんも少々困ったらしく、もうひとりのスタッフ役の社員さんに「どうだろうか?」と言うような問いかけを耳元にしているようだった。

 私は「何の問題があろう」と思って、舞台の上の大きなグランドピアノを見上げていた。あそこにピアノがある、そしてたまたま暗譜で弾ける曲が1曲ある。こんな好都合な事はないのだから、と『羞恥心』と言う文字が全くないウルトラミジンコ頭の私は思った。

 もうひとりの人が「いいんじゃないか」と言うような合図と共に、大好きなおじちゃんから「じゃあ、お嬢ちゃんお願いするよ」と言われ、私はトットト舞台にあがりピアノの前の椅子に座った。

このとき、空で弾ける曲が1曲あった。・・・偉大なる『バイエル100番』!!a0044166_0224027.jpg

 バイエルの教本は、全部で106番までの曲が組み込まれている。
だから、バイエルの中でも後半の方のこの時の私としては高度な曲であった。
 でも、1年生の後半の課題曲としてとっくに○をもらって済んでいる曲であったけれども、2年生になっても私は弾き続けていた。先に述べたように、2年生になる前に「ブルクミュラー」と言う教本に移り新しい宿題が出ているにもかかわらず、宿題はほとんど練習せず「バイエル100番」がマイブームのように何ヶ月も続いていた。

 この曲は、『前打音』と言う、軸の音の前にはじいて音を出すような装飾音が散りばめられて、まるでキラキラ輝いている曲にこの時の私は感じていた。

 一瞬、客席?が、「このチャコちゃんカットの珍客が何をやるのかしら?」とシンと静まり返った。
私は、トットとあがる事もなく、「さぁ~、バイエル100番のお披露目よ~」と始めた。

 ワルツのような3/8拍子の左手の伴奏に合わせて「タラ~タラ~♪・・」と右手の指をはじきながら、弾いていく。「ほらほら、キラキラして素敵でしょ」と私は弾いていった。

 中盤は「ンッチャッチャ・ンッチャッチャ・・」の軽快な伴奏に合わせて今度は、右手が高い音・低い音と移り代わりを繰り返し、左手ともクロスして弾いていく。「ほらほら、かっこいいでしょ~」と、進めていく。

 フィナーレはオーケストラのように「チャ・チャ・チャ~ン!」と終わる。
家で、バカのように繰り返して弾いていたから、間違える事なく無事終わった。

 すると、グランドピアノごしに、前の席のお偉方の着物やドレスを着たファーストレディー達が、ジュエリーを鳴らしながら、まるで孫を見るような温かい笑みでこちらを見て拍手をしているのが見えた。ほぼ約200人全員が拍手してくれていたかもしれない。中には微笑むと言うより、この飛び入り珍客が、2分余りの思わぬ演奏をしたので、半ば笑っていた人がいたかもしれない。

 そんな事はおかまいなしの私は、「ねっ!バイエル100番はいい曲でしょ♪」などと思って椅子をおりた。挨拶をしたかどうかも覚えていないけれども、舞台の袖の方を見ると、大好きなおじちゃんと他のスタッフの人が、お嬢ちゃんよくやった!とばかり手を大きく広げて、こっちにおいでと満面の笑みで迎えてくれているのが伺えた。

 私は小走りでおじちゃんの所に行き、チャコちゃんヘヤーをいい子いい子されていると、父が舞台の下まで向かえに来ていた。
 さすがの物静かな父も照れたように、いつもの癖のちょっと片手をあげて同僚に「やぁ悪かったね」と言っているような感じであった。おじさんとは「いや~、お陰で盛り上がって助かったよ」などと言う会話がされていたようだった。

 「偉大なるバイエル100番のお披露目」が終わって、大好きなおじちゃんも喜んでくれたので、自分の席にトットと戻る事にした。

 自分の席に戻ると、ただ一人、拍手もせず笑顔を浮かべていない人間を発見した。母だっ!!母は「もう、この子ったら恥ずかしい。社長のお嬢様はピアノを習っていらっしゃるし、常務のお嬢様などは音大に行っておられるのに、何て事してくれたのかしら。も~・・」と怒っていた。私には、まっったく、さ~っっぱり、母が怒っている訳がわからなかった。
 もうひとつ付け加えておこう。この頃の私のウルトラミジンコ頭には、『世間体』と言う文字も全くなかった。

 横を見ると、弟が美味しそうなデザートを食べていた。中央のテーブルは、知らない間に、見たこともない綺麗なプチケーキや色とりどりの果物が並んでいた。私もデザートにとりかかる事にした。

 パクパクとケーキを食べていると、父が席に戻ってきた。怒られるのかな~と上目使いで食べながら見ると、父は何も言わず静かに微笑んで、ほおばる私を見ているだけだった。
                         (つづく)
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by madamkayo | 2006-02-04 00:24 | 私小説
『飛び入り・バーティーデビューの巻・前編』

 小学校2年生になった春に、父親が勤める会社の創立何十周年かの記念パーティーが、東京の○ルトン・ホテルで行われた。社員は家族同伴と言う事で、私たちも招待され出席した。
母は、少し身体も調子良くなり、着物を着てめかしこんでいた。私と弟も、お出かけ用の洋服を着させられていた。あいかわらず私は、母が可愛いと信じ込んでいた、当時流行っていたTVドラマ「チャコちゃん・ケンちゃん」のチャコちゃん・ヘヤーのショートのざんばら髪にされていた。

a0044166_2275422.jpg このホテルの中でも一番広いと言われる『真珠の間』で行われ、入ると天井には大きなシャンデリアのようなまるで真珠の輝きを放ついくつもの灯りと、中央には当時では目新しいバイキング形式の円形のテーブルが設置され、その更に中央には、大きな氷の魚の形の彫刻がデコレーションされていた。

 料理も食べたことのないような、ローストビーフをコックさんがどんどん切って下さり、その列に並ぶと、お肉と横にビネガーで味付けされた野菜が盛られた。あんまり酸っぱいので母と、「このすっぱい野菜はいらないね~」と言いながらワイワイといただいた。

 パーティー会場は、約200人位の方が出席していたかもしれない。舞台では、お偉方のスピーチやそれが終わると、バンドの演奏などが行われていた。
パーティーの進行役は、父と同僚の方がマイクをとってやっておられた。

 「あ、去年夏、海で一緒に遊んでもらったおじちゃんだ」・・とすぐにわかった。
わが家はあまり出かける方ではなかったけれども、夏休み中の海だけは、会社で貸切のような民宿に連れて行ってくれた。一年生の夏休みは、弟は風邪をひいてしまった為母とお留守番だったので、父とふたりで行った。
 民宿には何組かの家族が一緒に何泊か泊まり、その時は、子供も私の歳位の男の子ばかりだった。昼間は海で、夜は蚊帳の中で遊んだのを覚えている。本当に楽しい思い出だ。そのおじさんも、紅一点の女の子と言う事で、私の事もとても可愛がってくれた。だから大好きなおじちゃんだ。

 ひとしきりバンドなどの催し物が終わり、そのおじさんがマイクをとって皆に呼びかけた。
「え~、まだまだお時間があるようですので、何か『かくし芸』のように出てきてやって下さる方は、いらっしゃいませんか?我こそはと言う方は、どうぞお手を上げて下さい!」と大きな声で言った。
 周りを見渡すと、さっきまでザワザワしていた客席が一瞬シンとして、何だか皆うつむき加減だ。
 「あれ、大好きなおじちゃんが呼びかけているのに誰も何とも言ってあげないの?」と私は気が気でなかった。

 またおじさんが「どなたか、いらっしゃいませんか~?」と呼びかけた。
「もう、じれったいなぁ~」とばかり、私は「ハイ」と気が付いたら、教室で先生に答えるように手を上げてしまった。

 すると、おじさんが「あれ?山○さんのお嬢さん?」と言って、ちょっとためらったように、こっちへおいでと促した。

 チャコちゃん・カットの私は、大好きなおじちゃんに向かって、ツッタカター♪と小走りに走って行った。
母は、「コラッ!ホロ・ヒレ・ハレ・・」と言いながら、着物の袖口をヒラヒラさせていたけれども、全く気にせず、私は舞台に向かって行った。
 
 私たちの席は、左側の中央だった。そこから舞台が遠く感じたけれども、おじさんも舞台から下りて、私の方に歩み寄ってくれた。少しかがんで顔を近づけて小さめの声で「何をしてくれるのかな?」と優しく聞いてくれた。私は間髪入れずに「ピアノを弾きます!」と元気に答えた。
                                    (つづく)
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by madamkayo | 2006-01-28 22:08 | 私小説
『冷や汗・ピアノのレッスンの巻』

 ○原先生のピアノのレッスンは、私が一番弟子であったけれども、初めてと思えないような、先生のお人柄がにじみ出るような、落ち着いた教え方で淡々と進むものだった。
 今思えば、先生はうちの母よりはだいぶ若い年齢であったけれども、あの年代でピアノを習っておられたのだから、ザリガニをとって育った団地のどこかの子と違って、本当のお金持ちのお嬢様として育った方だったと思う。だから、団地の奥様と思えないような、上品な雰囲気がするお人だった印象が残っている。

 a0044166_2259414.jpgどなたも耳にした事があるピアノの教本『バイエル』を小学1年生から与えられ、私はなんのてらいも迷いもなく、○原先生の導くままに進んでいった。
 
 先生は、ピアノの先生にありがちなヒステリックに怒ったり、どうしてこんなのができないのかしら?と言うような怠慢な態度など、一切見せないお人だった。
 それどころか、どんなに下手に弾いたとしても、その子の良い所を見つけて、褒める事を忘れず、週に1回のレッスンの中で、ひとつは褒めて下さったような気がする。

 あるレッスン中に突然先生が、アプライトピアノの上の蓋を開けて、直接響いてくる弦の音を聞かせてくれた事があった。「今の所もう一度、弾いてみて。ほら、こんなに良い音が出ているのよ。かよちゃんは、タッチが良いわね。とっても力強い音が響くわ。」と褒めて下さった。
 きっと、このレッスンの時は、褒める所がなかったのだろうと推測する。でも、マイクロミジンコ頭の私は、すぐその気になってしまった。「そうかぁ~、こうやってタッチすれば、いい音がでるんだぁ~」と、大きな音を出すのが好きになってしまった。

 ○原先生は、そんな子供心をその気にさせる、マジカルな技を持っておられる方だった。


 そんな超単純な私であったけれども、バイエルが終わって小学2年生になる頃、「ブルクミュラー」と言う教本が与えられた。この時「ハノン」と言うドレミの音階を何回も弾くようなウォーミングアップ的な教本と、「ツェルニー100番」と言うハノンより、より楽曲的でいろいろな弾き方が出来るようにする、算数で言うとドリルのような教本を与えられた。私は、このツェルニーはわりと好きであった。

 a0044166_2322023.jpga0044166_2324292.jpgでも「ブルクミュラー」と言う教本は急に難解になり、「ピアノが好き」と思い込んで、突っ走って来た私にとって、初めてぶち当たった、壁のような教本であった。
 聞いた事もない楽曲、その曲の雰囲気がそれぞれ全く違い、曲の好き嫌いがはっきりしていた私には、とっつきにくい物ばかりだった。
 
 ○原先生は、次の曲の宿題を出す前に予告編として、ご丁寧にサワリだけ弾いて見せて下さっていた。私は、1回聞いて譜面を見ただけで、「あっ、この曲嫌い」とわかってしまった。だから、土曜日の週一のレッスンまでに、どうしよう・どうしよう、と思いながら1回も譜面を開けない事がままあるようになってしまった。嫌いで苦手であれば、より一層練習しなければいけなかったのに・・・

 練習をしなかった週のレッスン教室への足取りは、重い。。。母に「ともかく行きなさい」攻撃で、嫌々玄関を出て、ダリダリラァァ~ン、とズリズリと団地内の道を歩く。先生への棟は、斜めに歩いて行き団地中央の公園を突っ切れば早いのだけれども、公園を通ると遊びたくなってしまうので、外回りでL字に曲がって歩いて行った。先生の家は、一番右の棟の右端の階段の3階だった。
 
 初めて譜面を開く時の緊張感と言ったら、酷いものだった。これこそブッツケ本番だ。「すいません、練習を今週はしていません」と謝るすべをしらないミジンコ頭の私は、冷や汗が出る思いで、最後までしどろもどろに弾いてみる。・・・するとどうであろう・・「かよちゃんは、譜面を読むのが早いわね~」と、さっきまで黙って聴いていた○原先生が、そうおっしゃっるではないかっ!
 練習をしていないのに、ほ・褒められた???私は目が点になる思いで、帰って来た事があった。
 
 だいぶ後で知った事だったけれども、どうも母が、私がダラダラと歩いている間に先生の家に「先生、すいません。今週も?全然練習しておりませんが、よろしくお願い致します。」と先回りをして電話をしていたらしい。。。そんな事は当時豆粒も気が付かない、マイクロミジンコ頭の私であった。
 
 ごく最近まで、この全く練習をしていない譜面を開いた瞬間の『冷や汗・ピアノレッスン』の夢を見る事があり、そんな時は、ハッと起きたりするのであった。
                                        つづく
 
 〔写真:上左・当時のバイエルと曲の教本(バイエル150円)
    中央左・ブルクミュラーの好きだった曲   中央右・嫌いだった曲〕
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by madamkayo | 2006-01-21 23:06 | 私小説
『団地のピアノの先生誕生の巻』

 この頃住んでいた公団住宅は私が生まれる前に建ち、当時にしては近代的なハイカラな建物だった。回りは田んぼや畑に囲まれ、まだ昭和の良き時代の、のどかな風景が広がっていた。
 3・4歳頃の私の遊びは、もっぱらメダカをとったり、大量発生したアメリカザリガニをとる事だった。当時は、バケツ一杯とれ、私は飽きる事なく夏などは毎日のようにとりに行った。この日の収穫とばかり、泡をブクブクはいているザリガニがいっぱい入ったバケツを玄関に置いておいたものである。

 その頃の事で、母が100回近く聞かせてくれる逸話のひとつにこんなのがある。

 いつもと違う路線の遠めのバス停に、3歳の私を連れて行った時の事。「ママ、あんよが痛いよ、痛いよ」と言いながら私は、お気に入りの黄色の長靴を指差していた。母はまた私が甘えているのだと思い「バス停まで我慢して歩きなさい」と歩かせたそうである。
 バス停に着いて「しょうがないなぁ、小石でも詰まっているのかしら」と長靴を脱がせて逆さにふってみると、アメリカザリガニが出てきて、怒ったように大きな鋏の爪を上にガッ!っと振り上げたから、びっくり!それを見ていたバス停にいたおじさん達が「これじゃお嬢ちゃん、痛いはずだねぇ!」と大笑いになったそうである。

 前置きが長くなってしまったけれども、こんなのどかな所で、おいそれとピアノの先生がいるわけもなかったのである。今の時代のように音楽教室もなく、ピアノの先生の人数も圧倒的に少なかった。周りの農家のおばさん達がピアノを持っていると言うのも考えづらく、隣町か東京まで、バスや電車で通わなければ、続けるのは不可能だった。

 少し体調が良くなって来たとは言え、まだそんな遠くまで私を毎週送り迎えする自信がなかった母は、この団地内で、ピアノの先生、それが叶わなければピアノが弾ける団地妻、じゃなかった奥様を探し出そうとしたのである。

 東京の巣鴨の金物屋の8人兄弟の長女として育った母は、体調が少しばかり悪くても口だけは達者である。あらゆる手段を使い、「ピアノが弾ける人をご存知ではありませんか?」ときいてきいて聞きまくった。
 そうしたらなんと、奇跡的に1人いらっしゃったのである!a0044166_22182929.jpg
畑の中に並んで建っている団地は、全部で18棟。私達のうちは、一番はずれの18号棟だった。
そのピアノが弾ける奥様は、対角線上のうちから1番遠い4号棟の人だった。

 その奥様は、まだ私より1~2歳年下の女の子と、更に私の弟より小さい男の子をかかえていた。
育児に真っ盛りのその奥様は、当初この母の「うちの子にピアノを教えて下さい」と言う申し出をお断りしていた。と、言うか断り続けていた。でも、母は頼み続けたらしい。
とうとうその情熱に押されて、団地の奥様は承諾して下さった。
  
 かくして私は、○原先生の一番弟子になったのである。

 そんな親たちの苦労と葛藤も、露にも知らないウルトラミジンコ頭の小学校1年生の私は、またタリラリラ~ン♪とピアノ教室に通い始めた。
そして、この○原先生には、小学校6年生まで、教えていただく事となったのでした。
                   (つづく)

〔写真:私・小学校1~2年生、弟・幼稚園生  後ろ右建物・18号棟〕
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by madamkayo | 2006-01-15 22:20 | 私小説
『オルガン教室からピアノ教室へ移った訳』

 私は、小学1年生になった。めでたくピカピカの1年生を何ヶ月か過ごしている頃、ある日の夕方、あの優しいオルガンも教えてくれた「もも組」の担任でもあった○山先生がうちに訪れて来た。

 私は、久しぶりの再会がとても嬉しかった。でも、先生は赤ちゃんを連れていた。ミジンコ頭は「いつ先生、結婚したんだろう?」と思ったものの、小学校の積もり積もった話もある。ちゃぶ台の横に座った先生のすぐそば行って、話しを聞いてもらって遊んで貰おうと思った。けれども、私との間の座布団の上で、モゴモゴ動いて「ホンギャー・フンギャ~」と言って泣いている、赤い小さい物体?がそれを阻む。
 それに、何だか先生の様子がおかしい。元気がなく、時たま目頭を押さえて何か父に相談しているようだった。父は、静かに聞いてはおだやかな口調で何やらアドバイスをしているようだった。

 私は、先生がどうやら今日は遊んでくれなさそうでつまらないので、台所でせわしなく夕飯の支度をしている母親の所に行った。
 この日のメニューは、たまたま「カレーライス」だった。それはいいのだけれども、なぜか「豆腐となめこのお味噌汁」も付けていた。カレーと合わないじゃない!それに先生が初めていらしたんだから、もうちょっとハイカラな物をお出しできないのかと、ヤキモキして見ていると、母が小さい声で聞いてきた。
 「○山先生の家の近くで、黒い洋服を来た男の人を見た事がある?」と言うので「あるよ」と答えた。

 a0044166_21485241.jpg○山先生のうちは、わが家の公団住宅から、すぐ前の何でも屋さんの△田屋さんを右に曲がり、バス通りに出たらそこを渡り、民家の間の小道を抜けると昔ながらの畑が広がっている。その畑の右側の一角に建っている新しいアパートの一階の左から2番目位の部屋にあった。

 オルガンのレッスンは、宿題の曲を弾いて見てもらい、今度の宿題のお手本を見せてもらい、最後に先生の伴奏で「ヤマハの、音楽きょ~しつ~♪」とお決まりの歌を元気に歌って終わる。
「やぁ~、今日も楽しかったなぁ~」とタッタカ・ランランラ~ンと畑を通り民家の間の小道を抜けると、私の帰るのを待っていたかのように、民家の影に隠れ立っていた、黒いシャツ・黒い細めのズボンの細身の男の人が、逆に小道に入って行った。それを2・3回見かけたのを覚えている。

 母はまた話を続けた。「その男の人が、同級生の女の人を訪ねて、赤ちゃんが出来てはどこかに行ってしまうのですって」と言った。超ミジンコ頭にはトンとわからなかったけれども、私が見かけたその黒ずくめの男の人が、大好きな○山先生を泣かせている事だけはわかった。可愛そうな先生。
 後に、大人になるにつれ、その意味がわかるようになってきて、「先生の女性としての人生っていったい・・・」と考える事が、しばしばあったりして私の頭から消えなかった。

 その頃それで、母は慌ててピアノの先生を別に探し始めたのかもしれなかった。

 それから、先生にはずっと会えずにいた。私が小学校3・4年生になった頃、商店街で「お母さん、買い物遅いな~」としゃがんで待っていると「あら、かよちゃん?」と優しい声が右上から聞こえてきた。見上げると、○山先生だ!先生は、3歳くらいの男の子を連れていた。「大きくなったわねぇ!」と言って私の方を見ている先生の顔は、あの頃と変わらない柔和な笑顔を浮かべていた。・・・
                        (つづく)

  〔写真:先生の家の前の畑で・オルガン教室のお友達と・私6歳・左〕
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by madamkayo | 2006-01-09 21:49 | 私小説
『初めての一斉一代の舞台』

 その後、年長「さくら組」に進み、毎日のように私にとって楽しい日々が続いた。
 ただこの頃、母は体調が悪く、寝たり起きたりの日が続き、運動会や遠足のような行事ごとにほとんど母は来る事ができなかった。
 でも、今に比べると実にポジティブな私は、遠足に父やおばあちゃんが来てくれたり、運動会のお遊戯で母の代わりに先生が一緒に踊ってくれたり、親子レースでは母の妹の若いおばさんが一緒に走ってくれたりして、何だかそれが嬉しかった。母に言わせると、寂しいとか思う神経がない、抜けている子だった・・?ので助かった、との事である。

 幼稚園の卒園の時期が来た。この幼稚園は、講堂のような表はガラス張りの大きな部屋があり、園児達が劇をみせたりする舞台と、その前にはグランドピアノがあった。
 オルガン弾きの業績?が認められたのか、その卒園式で私は先生の代わりに、卒園生の歌の伴奏を弾く事になった。その曲は、『思い出のアルバム』と言う曲だった。
 a0044166_935117.jpg手書きのような譜面を貰った時に、私にはちょっと難しいと言う印象はあったものの、ミジンコ頭の使命感から、これを何としてでもやりとげなければと思った。
 見たこともない左手の低い音や、おまけに♯などの記号も付いている。
ここでさらに困った事があった。この時、エレピを買ってもらってはいたものの、2DKの公団住宅の手狭さの為小さい物だったので、練習には鍵盤があきらかに足りなかった。

 そこで、体調が悪くても口だけは達者な母は、同級生の男の子のジュンちゃんの家にピアノがあるので、練習をさせてもらうように頼んだ。ジュンちゃんの家は同じ棟の隣の階段にあり、私はタッタカター♪と自分の家の4階から階段を下り、ジュンちゃんの家の3階まで上って、練習に通わせてもらった。
 余談だけれども、20歳の頃、就職活動している時に、とあるリクルートのビルの中で彼に8年ぶり位に再会した。お互いホクロが顔にある為すぐわかったけれども、異性同士と言う事で声はかけ合わなかった。

  卒園式の日が来た。やはり母は来れなかったので、父が一緒に来てくれた。
 『思い出のアルバム』を卒園生が歌う時間になった。さくら組の担任の先生がグランドピアノの私の横にピッタリついていた。父が心配そうに、所狭しと立っている父兄の間から首をのばして見ていた。超ミジンコ頭だった為、あがると言う事はまったくなく、左手の低いソ♯の音も間違いなく届いて弾けたと思う。
 卒園生の良い子のみんなが大きな声で「い~つの~・こと~だか~、おもいだしてご~らん~、あんなーこと~、こんなーこと~、あーったーでしょ~♪」と声を張り上げて元気に歌う。これで、パラダイスのような楽しかった幼稚園生活も終わり。私は、初めて「ママ(お母さん)に、来て見てほしかったなぁ~」と思った。
                        (つづく)
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by madamkayo | 2006-01-06 09:36 | 私小説
『オルガン弾きの任務の巻き』

 昭和40年、私は埼玉県の某幼稚園・年中組に入園した。私は幼稚園が大好きだった。門の所で「お母さ~ん!」と母親と離れたくないのか、しがみついて泣いている子を見かけた事があったけれども、そんな子の気持ちがわからなかった。お絵かき・お歌・お遊戯と楽しい事ばかり、教えてくれて、まるでパラダイスのような所に感じて私は毎日行っていたのだから。。。

 a0044166_05889.jpg私は当時4~5歳、幼稚園の制服のボタンも満足にとめられずボーっとしているような子だった。時には下の出来の良い弟にそのボタンをはめて貰っている姿を見て「この子に何か習わせないと、何もできない子になってしまう!」と危機感に襲われた母は、オルガンを私に習わせる事にしたそうだ。

 私が所属する『もも組』の担任の○山先生が、近くのアパートでオルガンの個人レッスンをなさっているのを、母は嗅ぎ付けたらしい。『幼稚園・パラダイス』の延長のように、母は私にオルガン教室に通わせた。
 私は母の計画にまんまと乗り、お気に入りのピンクのバックに教本を入れ、ひとりで通った。ピンクのバックは、外は硬いビニール製で長方形の形をしていて、長いチャックで開け閉めでき、表には3人のバービーちゃんのようなファッショナブルな女の子がポーズをとっている絵がプリントしてあった。そのバックを持って、タッタカター♪と歩いて、子供の足でも3~4分位で先生のアパートに着いた。
 ○山先生は、まだ20代で若くて、お顔はふっくらした感じの本当に優しい先生だったと記憶している。指の1・2・3・・の番号から、もちろんド・レ・ミ・・も、優しい口調で教えて下さった。私は、このオルガン教室に通うのが嫌だと思った事がなかったので、どんどん弾く事が好きになった。 

 当時のオルガンは、足でコキコキこいで空気を送らないと確か音が出なかったのだけれども、どちらかと言うとインドア派だったようで、家でも夢中で弾いている事もあった。
 この時から凝り性だったのか「チューリップ」「ちょうちょ」「むすんで・ひらいて」のこの3大幼稚園曲を、飽きることなく弾いた。「咲いた~咲いた~」から始まり「ちょうちょ~ちょうちょ~」で同じようなコードの移り代わりで伴奏もつけて「むすんで・ひらいて」では、アップテンポで時には「おひさまキラキラ」の所でよりジャン・ジャン・ジャンとご機嫌に移っていくメドレーを、超ミジンコ頭はこの上なく気に入っていた。

 それが見込まれたのか『もも組・おやつの時間・オルガン弾き』に、○山先生から抜擢された。これは、名誉な事だと超ミジンコ頭は思っていた。
良い子のみんながおやつをいただく前、手を洗う時に合図として、かよちゃん弾いて、と言う物だった。大好きな優しい○山先生の頼みを断るわけにはいかない。私は、一生懸命弾いた。もも組のお友だち達は、私のこの3大幼稚園曲を聴くと、パブロフの犬の条件反射のように、みごとに手洗い場に行き、何列かに並んで手をいい子に洗い始めた。先生は皆が洗い終わるのを見て、「ハイでは、いただきましょう♪いただきます!」「いただきます!」と、お皿にそれぞれのった何枚かのクッキーなどをいただいた。
 
 ・・・でも、ここで大きな問題があった。私だけが、手を洗えないのだ!
今だったら、40女の図々しさで、みんなが「いただきます」を言っている間に、ササっと洗ってしまうのだけれども、超ミジンコ頭はどうしていいかわからず、おずおずと自分の席に座り、絵の具だらけの時には泥んこだらけの自分の手をチラッと見て、端っこをつまむようにしてクッキーをそっと食べた。
 だから、私にとっておやつの時間だけは楽しい物ではなかった。一年間、このもも組・おやつの時間が繰り替えされた。優しい○山先生は、とうとう私が手を洗えない事に気がついてくれなかった。
                            (つづく)
      〔私:3歳・自宅でおもちゃのピアノを弾く  写真:父撮影〕
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by madamkayo | 2006-01-05 00:07 | 私小説