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Madam.Kayoのひとり言


by madamkayo
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「あぁ~、おピアノ教室」幼少編・(最終章・後編)


 ○原先生のピアノ教室も評判が良く、私が小学生の高学年になる頃には、生徒数は20人位になっていた。ほとんどが下級生のちょっとお嬢様風の女の子と、そして数名のお坊ちゃま風の男の子だった。
 私は1番弟子の名誉をかろうじて死守し、井の中の蛙とも知らず、優しい○原先生のもと、練習をしない週の悪夢はあれど、楽しいおピアノ教室は続いていた。

「あぁ~、おピアノ教室」幼少編・(最終章・後編)_a0044166_14304698.jpg○原先生も自信を付けて来たのか、「ピアノの発表会」は自宅ではなく、公民館のような部屋を借りるまでになっていた。
そこでも、私は最後に弾くと言う恐れ多い役をおおせつかったけれども、この頃までの私はあまりあがる事もなく、家と変わらず弾けたような気がする。

 小学校5年生の時の発表会には「アルプスの鐘」と言う雄大な曲をいただいた。
私が好きな大きな音の和音が中心の曲調で、所々もこれまた私が好きな装飾音がキラキラとほどこされてあった。
○原先生は私の好みを良くご存知だった。このような楽曲を与えれば、私が一生懸命練習してくるのがわかっていたのだろう。
 
 この日の発表会の頃、父が検査の為に入院していた。ちょっと寂しかったけれども、引率の母の前で、母のリクエスト通りに大きな音で元気良く弾こうと思っていた。
 私が弾き終わって椅子に付くと、「パパが見に来ていたのよ。病院を抜け出して、あそこの後ろにいたのよ。ママもびっくりしたわ」「パパは?」「かよこを見て、すぐ帰ったわよ」と言われた。真面目で物静かな父らしい行動だった。一言位、声を掛けて行ってくれてもいいのに、父は私が弾いている姿だけ見てそっと帰って行ったのだった。

 そんな充実したピアノ教室にいたにもかかわらず、ピアノを持っていないと言うのが、私にとってどうしても気がかりな事だった。
 でもそれも、もう少しで解消されそうだった。我が家が引っ越す事になった。小学生6年生の夏にとある千葉の奥地?に引っ越す事になった。でもこれでピアノを買ってもらえる!

 「あぁ~、おピアノ教室」幼少編・(最終章・後編)_a0044166_14314726.jpg6年1組の仲良しの皆で、豪快な元相撲部の担任の男の先生の号令のもと、建ったばかりの体育館で私のお別れ会をしてくれる事になった。新しい体育館で何かをしたいだけだったのかもしれないけれども、私はとっても嬉しかった。
 母がビンジュースを酒屋さんに持ってこさせ、皆に振舞った。皆でフォークダンスを踊ったり楽しいひとときを過ごし、最後は私が舞台に登りみんなにお別れの挨拶を述べた。何を言ったか覚えていないけれども。。。クラスメイト達は、思い思いのプレゼントを舞台にひとりづつ上って、私に手渡してくれた。女の子は貯金箱など可愛らしい物、男の子はいらない漫画本?などをくれた。ありがたい事だったけれども、母に言われた通り、誰が何をくれたかメモっておきなさいと言われていたので、メモをするので精一杯だった。
 
 感情の脳細胞が未だ出来ていない頃だった為、この時は寂しいと言う感情は湧き上がってこず、皆がこうやってお餞別をくれる事がただただ嬉しい、ミジンコ頭だった。

 しかし、引っ越すまぎわの最後の○原先生のピアノのお稽古の時間になって、やっと気が付き始めた。
ピアノを手に入れる為に引っ越すと言う事は、友達だけでなく、この優しい○原先生ともお別れだった。
 この頃の未熟者の私は、満足に○原先生にお別れを言えなかったかもしれない。でも先生はちゃんと私に最後の言葉を用意してくれてあった。
最後のピアノのお稽古が終わると、長細い色紙をくれた。それには、先生の綺麗な筆字でこう書かれてあった。

  「日頃の努力 一切に勝つ」

この言葉の本当の意味がわかるのに、私は数年かかったかもしれない・・・
                                     (おわり)

(下写真:私・中央教壇後ろ右から2番目)


『思春期編』につづく
予告:ポジティブだった幼少の頃に比べ、ぐっとネガティブになります。お楽しみに~
by madamkayo | 2007-01-03 14:34 | 私小説