新春スペシャル・私小説「あぁ~、おピアノ教室」幼少編・4
2006年 01月 15日
『団地のピアノの先生誕生の巻』
この頃住んでいた公団住宅は私が生まれる前に建ち、当時にしては近代的なハイカラな建物だった。回りは田んぼや畑に囲まれ、まだ昭和の良き時代の、のどかな風景が広がっていた。
3・4歳頃の私の遊びは、もっぱらメダカをとったり、大量発生したアメリカザリガニをとる事だった。当時は、バケツ一杯とれ、私は飽きる事なく夏などは毎日のようにとりに行った。この日の収穫とばかり、泡をブクブクはいているザリガニがいっぱい入ったバケツを玄関に置いておいたものである。
その頃の事で、母が100回近く聞かせてくれる逸話のひとつにこんなのがある。
いつもと違う路線の遠めのバス停に、3歳の私を連れて行った時の事。「ママ、あんよが痛いよ、痛いよ」と言いながら私は、お気に入りの黄色の長靴を指差していた。母はまた私が甘えているのだと思い「バス停まで我慢して歩きなさい」と歩かせたそうである。
バス停に着いて「しょうがないなぁ、小石でも詰まっているのかしら」と長靴を脱がせて逆さにふってみると、アメリカザリガニが出てきて、怒ったように大きな鋏の爪を上にガッ!っと振り上げたから、びっくり!それを見ていたバス停にいたおじさん達が「これじゃお嬢ちゃん、痛いはずだねぇ!」と大笑いになったそうである。
前置きが長くなってしまったけれども、こんなのどかな所で、おいそれとピアノの先生がいるわけもなかったのである。今の時代のように音楽教室もなく、ピアノの先生の人数も圧倒的に少なかった。周りの農家のおばさん達がピアノを持っていると言うのも考えづらく、隣町か東京まで、バスや電車で通わなければ、続けるのは不可能だった。
少し体調が良くなって来たとは言え、まだそんな遠くまで私を毎週送り迎えする自信がなかった母は、この団地内で、ピアノの先生、それが叶わなければピアノが弾ける団地妻、じゃなかった奥様を探し出そうとしたのである。
東京の巣鴨の金物屋の8人兄弟の長女として育った母は、体調が少しばかり悪くても口だけは達者である。あらゆる手段を使い、「ピアノが弾ける人をご存知ではありませんか?」ときいてきいて聞きまくった。
そうしたらなんと、奇跡的に1人いらっしゃったのである!
畑の中に並んで建っている団地は、全部で18棟。私達のうちは、一番はずれの18号棟だった。
そのピアノが弾ける奥様は、対角線上のうちから1番遠い4号棟の人だった。
その奥様は、まだ私より1~2歳年下の女の子と、更に私の弟より小さい男の子をかかえていた。
育児に真っ盛りのその奥様は、当初この母の「うちの子にピアノを教えて下さい」と言う申し出をお断りしていた。と、言うか断り続けていた。でも、母は頼み続けたらしい。
とうとうその情熱に押されて、団地の奥様は承諾して下さった。
かくして私は、○原先生の一番弟子になったのである。
そんな親たちの苦労と葛藤も、露にも知らないウルトラミジンコ頭の小学校1年生の私は、またタリラリラ~ン♪とピアノ教室に通い始めた。
そして、この○原先生には、小学校6年生まで、教えていただく事となったのでした。
(つづく)
〔写真:私・小学校1~2年生、弟・幼稚園生 後ろ右建物・18号棟〕
この頃住んでいた公団住宅は私が生まれる前に建ち、当時にしては近代的なハイカラな建物だった。回りは田んぼや畑に囲まれ、まだ昭和の良き時代の、のどかな風景が広がっていた。
3・4歳頃の私の遊びは、もっぱらメダカをとったり、大量発生したアメリカザリガニをとる事だった。当時は、バケツ一杯とれ、私は飽きる事なく夏などは毎日のようにとりに行った。この日の収穫とばかり、泡をブクブクはいているザリガニがいっぱい入ったバケツを玄関に置いておいたものである。
その頃の事で、母が100回近く聞かせてくれる逸話のひとつにこんなのがある。
いつもと違う路線の遠めのバス停に、3歳の私を連れて行った時の事。「ママ、あんよが痛いよ、痛いよ」と言いながら私は、お気に入りの黄色の長靴を指差していた。母はまた私が甘えているのだと思い「バス停まで我慢して歩きなさい」と歩かせたそうである。
バス停に着いて「しょうがないなぁ、小石でも詰まっているのかしら」と長靴を脱がせて逆さにふってみると、アメリカザリガニが出てきて、怒ったように大きな鋏の爪を上にガッ!っと振り上げたから、びっくり!それを見ていたバス停にいたおじさん達が「これじゃお嬢ちゃん、痛いはずだねぇ!」と大笑いになったそうである。
前置きが長くなってしまったけれども、こんなのどかな所で、おいそれとピアノの先生がいるわけもなかったのである。今の時代のように音楽教室もなく、ピアノの先生の人数も圧倒的に少なかった。周りの農家のおばさん達がピアノを持っていると言うのも考えづらく、隣町か東京まで、バスや電車で通わなければ、続けるのは不可能だった。
少し体調が良くなって来たとは言え、まだそんな遠くまで私を毎週送り迎えする自信がなかった母は、この団地内で、ピアノの先生、それが叶わなければピアノが弾ける団地妻、じゃなかった奥様を探し出そうとしたのである。
東京の巣鴨の金物屋の8人兄弟の長女として育った母は、体調が少しばかり悪くても口だけは達者である。あらゆる手段を使い、「ピアノが弾ける人をご存知ではありませんか?」ときいてきいて聞きまくった。
そうしたらなんと、奇跡的に1人いらっしゃったのである!
畑の中に並んで建っている団地は、全部で18棟。私達のうちは、一番はずれの18号棟だった。
そのピアノが弾ける奥様は、対角線上のうちから1番遠い4号棟の人だった。
その奥様は、まだ私より1~2歳年下の女の子と、更に私の弟より小さい男の子をかかえていた。
育児に真っ盛りのその奥様は、当初この母の「うちの子にピアノを教えて下さい」と言う申し出をお断りしていた。と、言うか断り続けていた。でも、母は頼み続けたらしい。
とうとうその情熱に押されて、団地の奥様は承諾して下さった。
かくして私は、○原先生の一番弟子になったのである。
そんな親たちの苦労と葛藤も、露にも知らないウルトラミジンコ頭の小学校1年生の私は、またタリラリラ~ン♪とピアノ教室に通い始めた。
そして、この○原先生には、小学校6年生まで、教えていただく事となったのでした。
(つづく)
〔写真:私・小学校1~2年生、弟・幼稚園生 後ろ右建物・18号棟〕
by madamkayo
| 2006-01-15 22:20
| 私小説